9.15.2010

Deception

お母さんの作るご飯がこの世で一番おいしい。
今晩のメニューは、秋刀魚にししとうをたっぷり入れたピリ辛煮付けと、五目煮、生もずく酢、ぬか漬け、キムチ、そして大好きな田庄ののりだった。

以前ツイッターで、「マツコ以前マツコ以降。今日を境にわたしの中の何かが変わった」と呟いた。わたしはNYに行く前仕事で、幸運にも大好きなマツコデラックスさんの撮影に同行させてもらい、彼女の2時間強にわたる人生についてのお話を聞き、その後マツコ様もお気に召してくだすった、どいちなつさんのケータリングをいただきながら、さらに2時間くらいかけて、みんなで雑談するという、貴重な体験をした。そのままNYに行ってしまったので、放置していた、そのインタビューのテープ起こしというのを昨日して、その話を改めて聞き返した。マツコさんのその風貌やイメージとは裏腹に、話している内容はモラルに溢れ、ご自身の事も世の中のことも本当によく、そしてまともにとらえている人だった。ある意味当たり前のことしか言っていない訳なんだけど、その"当たり前のこと"を受け入れる勇気というか自覚みたいなものが、そのお悩み相談の相談者含め、わたしも、あまりに欠けているんだな、と痛感した。
マツコさんがお話の中でよく使っていたことばで「まやかし」という言葉があった。ある相談の内容の答えでこう言っていた。
「みな面倒くさがりでろくに努力もしないくせに、なにか特別になりたいなんて、そんな考え浅ましいのよ。いいと思ってる世界や憧れなんてそんなの全部まやかしよ」ってね。
"まやかし"。すごいいい言葉だな、と思った。わたしはちょっとロマンチストっつーか、いつだって夢見がちで、それでいて特にそこに向かっていこうと(そもそもそれはどこなんだという話だけど)努力するタイプでもなく、いつも頭ばっかり違うところにあって現実をちょっとバカにしているっていうか、おろそかにしているような、そういうところがあって。その話を聞いたとき、「パチン」と耳元で何か弾ける音がして(©『告白』)目が覚めたような気がした。
マツコさんは、じじばばほど歳の離れた、モラル溢れる両親の元、ひとりっこの長男として生まれ、地に足着いた家庭で育った。そういう家庭だったからこそ「心が先に大人になってしまった」し、「そんな自分が気持ち悪くて、それらから反発する気持ちでおかまになった」らしい。見た目や心があまりにも人と違いすぎるから、「どうやって自分でご飯を食べて行ったら良いか」というところで基本的に悩んでいたので、今回答えてもらった世の一般女性の悩みなんてものは、正直「よくわかんないわ」と言っていた。引きこもっていた時期があったし、あまりにも人と違うというところで、自分のこと、世の中のことをとても理解しているようだった。「誰よりも知りたがりだから、自分の中の箱をどんどんどんどん開けていったの。自分を正しく知るという行為は苦痛を伴うけれど、どんどんふたを開けていった。でも開けても開けても何も見つからなかった。それで分かったの。人生諦めと努力なのよ」と。知ってしまうことは鈍感でなくなることだし、鈍感である事がいかに幸せなことか。でもわたしは知りたかった、のだそう。
それから「生きることは面倒くさいこと」ってのも言ってた。家族だろうが、他人が介在する時点で面倒なことだし、誰だって何をするのも面倒くさいのは一緒なんだって。面倒くさいを超えて、ひとよりやった人がちょっととびでる。意志ではなく、義務にするかどうかの違い。でも別にみんなが頑張らなくていい。面倒くさいを回避しているのが好きなら、その人はそれが一番心地いいんだから、その自分をありのまま受け入れればいいって。向上していくことに万人が耐えられるわけではないから、現状維持でもいいんだって思ってもいいじゃない。って。
あと仕事に才能は必要ですか?って質問に対しては「そんなものはほんの一握りのアスリートの話で、人よりちょっと努力した人が、人よりちょっと抜きん出る。それを羨ましさだけで「才能」って言葉ひとつで片付けたがるだけよ」とも言ってた。
うーん。なんてまともなんだろう。全部言っていることがまともすぎてひれ伏した。まともなことを言っているだけなのに、お話しされるすべてに「ほほう」って思った。ってことは、あらゆることを今まで私はまともにとらえていなかったし、まやかしを見ていたってことなんだって気がついた。

NYに行ったとき、ファッションウィークの前半と日程が被っていたから、いくつか見に行った。レイチェル・コミーやジェン・カオのショー、オーガニック バイ ジョン・パトリック、マラ・ホフマン、マンディ・クーンのプレゼンテーションなどなど。
服はすごく可愛かったし、セレブとかも普通にいるような、とんでもない状況なわけなんだけど、最初の2日は見て、あとの2日はもう行く気にはならなかった。
多分“マツコ以前”のわたしだったら、雑誌で見ていたファッションセレブが目の前に居たり、お酒が振る舞われるパーティなんかがある、みたいな状況ってのには、喜び勇んでふわふわした気持ちで出向いていたと思うんだけど、“マツコ以降”のわたしは、そんなにファッションの世界に積極的になれずにいた。目の前で起きていることはリアルだけど、なんだかそういう雰囲気の中に居ることが"まやかし"に思えてしまって。金曜日の日程のショーは全部パスして、Alexander WangのショーとBoy. Band of Outsidersのプレゼンテーションがあった土曜日の夕方は、US Openの準決勝に夢中になっていた。手配してくださったPressの人には申し訳ないけれど、行くのが面倒じゃなくて、多分いま行く事が違うな、って気がした。いつかはきちんと仕事として行きたいけれど、いま行く事は悔しいけどまやかしだって。

今日は7時過ぎに会社を出て、大きなTOPSHOP新宿店のOpening Partyに行った。Partyなんてもんは"まやかし"の最たるもんで、マツコ以降のわたしは、そこで振る舞われるシャンパンもフィンガーフードもなにも手にとらず、Libertinesのライブも見ずにそそくさとその場を後にして自宅に帰った。いつもより早く帰れたら、母が作ったご飯が待っていて、大好きな後藤アナウンサーが出ているNHKのきょうの料理をみながら、お夕飯を食べた。これにはまやかしでなく本物の"幸せ"を感じた。マツコ以降、いま必要なものとそうでないもの、やるべきこととやらなくてもいいことが、はっきりと見えるようになった気がしている。

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