ハワイに引っ越して2年半、
なんだかピタリとマッサージができなくなって
(というか強制終了がかかり)
(というか強制終了がかかり)
考える時間がとっても増えた。
ハワイに来てから駆け抜けて来たけど、
時間が止まっていまどこに立っているのか
確認するみたいに。
そのときどきの興味や関心っていろいろ
あるんだけれど、
こっちに来てからの関心や体験や気がついた事が
ぜんぶ点と点でつながりはじめた。
それは何かって言うと
こういうことです。
ファッションの雑誌で仕事をしていたけど、
自分がオシャレしたいとか
オシャレが好きとかいう単純なものではなくて
人をうごかす心理とか集団意識とか
その現象とかファッションを取り囲む
カルチャーや意識に興味があるというのが本音だった。
服なんか白いTシャツにデニムが
似合う人が一番おしゃれだ
と思っていることには今も昔も変わりない。
例えば可愛い服を買うとか
いいブランドを持つとか
イケてるブランドの服を着るとか
そういうファッションのシンプルな楽しみや
同調意識や
威光意識による自分は特別だという
自尊心を保つようなためだけの部分に
気持ちをサーフィンさせているだけでは
どうも薄っぺらい感じがしていて
だけど大衆の心理はそんなところで、
いつもそれに関しては漠然と考えていた。
重要なのは誰が、どんな人が着ているかって
ことだろうって。
要するに、
いい服来たり持ったりしているのに
全然似合ってなくて
その裏の自信のなさとか
どうみられたいという浅い意識しか見えなくて
結局滑稽で安っぽく見えるヤツが
あまりにも多いってことが
わたしの興味の対象だった訳だ。
意地悪!
そんな事で自信をつけたいおめえのことは
わかったし、
どうでもいい、
あんたは誰なんだ!ってことだ。
そう言う意味ではガイジンっていうのは
なんだか気取ってもオシャレでもないのに
格好良くみえたのは確かで
雑誌を死ぬ程読み漁っていた
中高生の頃から不思議に思っていた。
それはどんぐりの背え比べ社会の日本では難しいことで、
肌の色や背格好や宗教観やバックグラウンドの異なる
いろんな人が交じり合う場所で生まれ育ったからこそ
なんかその人がありのままの自分を受け入れていて
それが"かっこいい"みたいなこと
だったのかもしれないって。
だからシンプルにガイジンカッコいい
みたいになってしまうわけだろう。
あとは残念ながらそもそも日本人のDNAには
長い鎖国時代からの解放で
西洋文化への
圧倒的な劣等感が組み込まれてしまっているだろう。
じゃあそのカッコいいのルーツってなんだろうって
やっぱり自分を知って理解するということで。
そう言う人は何着ても
おしゃれというわけだ。
日本人でももちろん自分を知っている人はおしゃれだ。
人は馬鹿じゃないから
一見おしゃれっぽい人のなかでも
実は自意識過剰なだけで滑稽なひとと
本当にオシャレなひとは見分けられる。
若いときなんかは自分探しなんて言葉が身近だったけど
そこそこBBAになってきたら
そんなことは考えるのも面倒くさいが
結局人はいくつになっても
自分が何者なのか探して理解して
自分はこういう人なんだと自分で納得させて
人生の意味を
自分で付けていくのではなかろうか。
これはなんでかなーって
いろいろな人や現象の心理背景を捉えて
なぜなぜ子の旅をして彷徨って来た
ある意味の答えが
ちょいと見えたようなスッキリ感もある。
そんな心の旅をしていたことは
知る由もなかったけれど。
でだ。
上のイメージ群の話に戻る。
人にはそれぞれ波動があり、チャクラがあり、オーラがある。
チャクラは7つあって
人によって大きさはそれぞれながら
チャクラのバランスが整っていると
その人の本来持つ力が発揮されやすい。
要するにスピリット的に健康が保てるという事だ。
チャクラは波動で
色があるので、
パワーストーンや食べ物
さらには服などでも強化することができる。
ヨガやアーユルヴェーダもそうだね。
チャクラのエネルギーをより強化することで
生命力に溢れてオーラが大きくなる。
チャクラが弱ったり閉じたりすると
あからさまに調子が悪くなる。
健康は体だけじゃないことがわかる。
チャクラは心や魂や身体の健康やバランスを示す
見えないものさしだ。
続いてそのオーラ。
オーラはそれぞれの人が持つエネルギーを
色で表したもので
わたしたちは誰もがそれを持っていて
見えなくても波動という微粒子で
お互いにそれを感じ取っている。
自分と同じような波動を放っているひとは心地よい。
または活動的なエネルギーに溢れるひとと
一緒にいると元気になる、
落ち着いたオーラのひとと一緒にいると
穏やかな気持ちになるなど。
無意識的にこれは
動物レベルで感じている。
それを可視化するカメラもあるし化学的に証明されていることだ。
オーラの色が変わる人もいれば
いつも同じ色のひともいる。
それがその人のもつ個性だ。
個性。
自分を理解すること、
揺るがない自分を保つ事。
それがオシャレの本質だと思っている。
そしてオシャレが重要なのではなく、
大切なのは
その人が自分のことを正しく理解して
その人らしく生きている事だ。
何歳くらいで就職して
何歳くらいで結婚して
何歳くらいで子ども作って
何歳くらいで家を建てて...
みたいなのは社会がつくった
平均的幸せ規準で
(人から見て羨ましいが規準なのでいいね!くらいに薄っぺらい)
千差万別の人、ひとりひとりに当てはまる
幸せ規準かどうかは不明。
ブルータスの鶴ちゃんとしいたけさんの対談で
鶴ちゃんが「腹の中の主に従う」って
言っていたけど
それがその人の持つそれなんだよね。
他の人と絶対おなじではない。
いい企業に勤める事や
結婚はある意味ステイタスだけど
その人がその人を
本当の意味で生きているかは
その人にしかわからない。
全員が冒険しろという訳でもないけど。
いま人が食に走ってるのも
愛が足りないからだという。
セックスレスになるのも不健康の表れだ。
肉体的に(欲だけで)つながった関係は
肉体が離れると繋がりがなくなるらしい。
それは本当の意味でお互いを
自分を理解して会っているわけでは実はないのかもしれない。
お互いを理解していないということは
自分さえも理解していないってことなのかもしれない。
最近よく話をする
スピリチュアルカウンセラーの
ゆかさんも
オーラを見てパワーストーンを組む
みあちゃんも
大概の女性の女性のクライアント悩みは
いつ結婚できますか?みたいなことらしい。
で、男性の悩みは仕事のこと。
どちらもそれぞれの性にとって
最大のステイタスかもしれないけど、
そこでふたりが言いたいのは
その前に自分が自分を愛せってことだという。
そうすればその答えはそれぞれ求める方向で
自ずとみつかるんだけどねって。
自分を愛するは
自分を正しく理解して
尊重することだ。
甘やかしたりエゴというではない。
この発見と気づきから
わたしは何が出来るのかなーって
最近考えていた。
自分の能力を生かして
人のためにやくにたつことをすると
感謝されて(それが愛)
愛が循環するらしいよ。
(by上のひと)
セラピストとして感じるのは
"疲れる"って肉体じゃなくて
心とか精神が疲れている場合が
とても多い事に気がついた。
食に走るのも
実は愛が足りないからみたいだし
いいね!がほしいのも
認められたい=愛(いいねは愛じゃないけど)がほしい。
簡単でイージーなところに走らず
深いところでそれを充たすには
自分をよく知って自分を愛する。
そうすると愛がシェアできるようになって
愛される。
というシステムのようです。
これは自分にも言えることなんだけど
いろんなことが実はイージーな
自尊心とか承認欲に動かされてしていることを自覚して、
そうじゃなうて本当に自分ができることやしたいことを
尊重して自分にそれをさせてあげよういたいなことかな。
あと身体と心と魂をぜんぶ健康にすると
自分が自分らしく輝けて
世界もキラキラして見えるよ!みたいなことかな。
現代社会でその状態にもっていくのってとても困難だし、
欲望と愛の狭間でStruggleするのが人生なんだけど。
なんだろう。
だから私はこの壮大なアイデアを元に
何ができるだろうと思って
書く仕事の傍らで
プランをいま練っているところです。
(※やべぇ、どんどん不思議ちゃんになってきてるよ)